旧街道ウォーク314★日光御成道(岩槻街道)その7「和戸〜幸手追分」活動報告
【日 時】
2006年11月23日(木・祝) 11:00〜17:30頃
【コース】
東武伊勢崎線・和戸駅〜富士塚〜下高野の一里塚〜八幡神社〜南側用水〜幸手追分(日光道中合流点)+石井酒店<昼食休憩>〜日光道中・旧幸手宿〜満福寺〜東武日光線・幸手駅・・・<電車移動>・・・東武日光線・栗橋駅〜静御前の墓〜関所番士屋敷〜八坂神社<御祓い>〜日光道中・旧栗橋宿+吉田家水塚<見学・ご当主の説明拝聴>〜利根川堤防・水神社〜栗橋駅<幸手宿まで歩行約4キロ、栗橋宿内で約3キロ>
【参加者】
○古里 実、磯田尚子、岩田 清、大竹 亮、梶川義実、加藤伸子、齋藤健一、高梨健一、竹沢文男、千川 明、長澤純一、橋本 修、村松紀明、山川紀子、山田常圭、脇野真澄、△片桐拓朗、△谷貝 等(以上、18名。○は主催者、△は部分参加)
【概況説明】
日光御成道の第七回(最終回)は、午前中に、和戸から関東平野の田園風景の中、一里塚や用水路をながめつつ、幸手追分(日光街道合流点)までの短い区間を歩きました。
これで無事に日光御成道(日本橋〜幸手)を踏破しましたので、追分の老舗・石井酒店で地酒を購入し、一同祝杯を挙げました。
昼食後、幸手宿を半ばまで散策し、東武電車で栗橋宿へ移動しました。
栗橋宿では旧家の家並みがひっそり佇んでおり、ご厚意で吉田家に今も残る貴重な水塚を見学し、ご当主の説明を拝聴しました。
現在、街の姿を大きく改変する利根川の堤防改修案が検討されており、街の将来について深く考えさせられました。
最後に、夕闇の利根川堤防に上り、江戸からの遙かな旅路を思い起こしつつ帰路に就きました。
【評価結果】
今回の道筋(日光御成道の区間)は、比較的短いこともあって沿道の魅力はやや低いものの、全体にやや高い評価になりました。
参加者の関心は圧倒的に後半の栗橋宿に集中し、旧道に並ぶ宿場の風景が利根川改修事業によって改変目前にあり、今まさにその内容が議論されている中で、江戸時代以来の水塚を守るご当主のお話に深い感銘を受けました。
そこで、評価の中で、私たちが現地で感じたこと、その後考えたことをまとめました。
この土地を大切に守り育ててきた人たちの想いに応えるようなまちづくりであってほしいと切望します。
【参加者による評価結果】
○1〜4については日光御成道の部分<和戸〜幸手宿>の評価、5〜はオプションの栗橋宿を含めた評価。
○A〜D評価の目安は次の通り。 A:非常に良い B:良い C:普通 D:良くない
1 安全性(危険を感じずに歩けるか) 評価点 3.40(内訳:AAAAAABBBBBBCCC)
評価A:歩道があり、交通量もそれほどではなかったので安全だった。
評価A:ほぼ全区間において歩道を通行できた。自転車もそれほど多くなかったため、安全に歩くことができた。
評価A:川口から岩槻までは歩道もなく交通量も多く危険が一杯だったが、今回の区間は比較的交通量も少なく、歩道もあり、歩きやすかった。
評価A:ほとんどの所で歩道があり、安全であった。
評価A:特に危険を感じるところは無かった。
評価A:やや狭いが、歩道が確保されていた。
評価B:今回も歩車道の区別がきちんとされた区間はあまりなかったが、それでも市街地に近いためか、そこそこ歩行者の歩けるスペースが(片側だけでも)あったり、またさほど自動車交通量も多くなかったという印象で、今まで歩いた区間の中では多少、歩きやすかったと思う。
評価B:少なくとも片側には歩道もあり、安全に歩けた。
評価B:歩道が整備されている。
評価B:狭いながら歩道あり。
評価B:歩道が狭いながらもあり、まずまず。
評価C:歩道がない部分がある。
評価C:歩道幅が狭くて車を注意して歩くことが多かった。
2 快適性(気持ちよく歩けるか) 評価点 3.13(内訳:AAABBBBBBBBCC)
評価A:沿道に緑が多く、歩いていて気持ちがよい。
評価A:柿の赤、柑橘類のだいだい、キウイにいちじく、実りの秋を楽しみながら気持ちよく歩いた。
評価A:距離が短かったこともあるが、おおむね快適だった。
評価B:街道沿いに南側用水(葛西用水の支流)も流れ、気持ち良く歩けた。
評価B:穏やかな田園風景が広がり、気持ちがのびのびした。
評価B:静かな地方都市で田園もあり気持ちは良かった。
評価B:沿道の景色や開放感のため比較的快適であった。
評価B:道路に面している家に生け垣が多くあり気が和む。
評価B:松並木の名残の見事な松や晩秋の風情が楽しめた。
評価B:緑は多かったが、車の通行が多かった。
評価B:天候に恵まれたこともあり、沿道の畑などを眺める余裕もあって、快適に歩くことができた。沿道には大小様々な水路・河川があり、関東平野と水の関係を考えつつ、歩くことができた。また私事ながら、夏に痛めた脚・腰が最終回にはどうにか歩ける程度に回復してきて、そういった意味でも気持ちよく歩くことができた。
評価C:長閑な街の雰囲気が気持ちよく歩けた。
評価C:幸手商店街は装飾過剰で安っぽい。
3 沿道の魅力(立ち寄りたい場所が多いか) 評価点 2.07(内訳:BBBBBBBBCCCCCCC)
評価B:街道(今回の区間)全体がなかなか快適に歩けたこと、幸手宿と栗橋宿の印象が強かったためか、沿道のポイントでは一里塚が記憶に残った箇所だった。また、始発の「和戸」駅もこじんまりとして、都市圏を離れた所だな、と感じさせてくれる魅力的なポイントだった。
評価B:下高野の一里塚や沿道の残り少ない松、そして日光道中の合流点にある石井酒店が魅力だった。
評価B:一里塚、松並木の残り、八幡神社等がある。
評価B:東側が残る一里塚、松並木の名残、道標を兼ねた石塔等。
評価B:神社、お寺、一里塚などがあり、よい雰囲気。
評価B:街道の松並木の面影もあたが、いま一つの感がした。
評価B:短いながら、数多くの史跡や追分の酒造があった。
評価C:下高野の一里塚、石井酒造(くらいか)。
評価C:歩く距離が短かったためかもしれないが、いつもより少なく感じた。
評価C:前回よりは少なかった。
評価C:今回はあまり無かった。
評価C:派手さは無くても気持ちを引き付ける所があった。
評価C:地味ではあるが、郊外の街道、町並みを歩くことが、私にとっては魅力的だった。
評価C:よく噛むと味わいがあるかもしれないけれども、気づきにくい。
4 総合評価(全体として魅力的な道か) 評価点 3.27(内訳:AAAABBBBBBBBBCC)
評価A:特別な名所旧跡があるわけではないのだが、気持ちよく歩けた。
評価A:関東平野の田園風景を楽しみつつ、日光街道との合流点に到達し、追分の酒造で地酒を求めて、踏破の祝杯を挙げることができた。
評価A:終着点(幸手追分)に着いてみて、やっと「日光御成道」の位置づけがわかったような気がした。本郷追分も見たが、たしかに始めも終わりも、将軍様が直進、その他諸々は折れて合流、という 「御成道」の作り方には感心した。ただ、御成道が江戸から幸手までで、もっと先まででなかった
のは何故だろうか?どうせなら日光東照宮まで専用道路でも?という素朴な疑問も沸いてきた。
評価B:前回に比べ短い距離だったが、旧街道と河川と水路の関係に思いをはせながら、楽しく歩けた。
評価B:天候にも恵まれ、気持ち良く安全に歩けたが、立ち寄りたい場所は少なかった。
評価B:短い区間の割には随所に見所もあった。
評価B:道標などもあり、街道として歩くのに適当。
評価B:旧街道の歴史を活かしきれていないように思えるが、発掘すれば面白くなりそう。
評価B:とにかく歩き通せたことは良かった。
評価C:ところどころに昔の街道の面影を観ることができて良かった。
評価C:八幡神社のギンナンや石井酒造など、幾つか楽しめる所はあったが、強烈な印象を残す所はなかったように思う。
5 特に印象に残ったところ+理由(いくつでも)
東武線和戸駅★小さな駅と駅舎、それによく似合った駅周辺の街並み(近くにはマンションもあったが)。鄙びた風景に「遠くまで来たなあ」と実感した。
下高野の一里塚★東側に塚が残っている。
下高野の一里塚★東塚だけでしたが、往時がしのばれる。
下高野の一里塚★塚、樹木とも立派。
八幡神社の道標兼庚申塔★側面は「右江戸かい道」等道標となっており、庚申塔が豪華な飾りとなり始める元禄期(元禄7年)の形を残す。
松並木の名残の松★三本が残り、今なお生き生きとしている。
琵琶溜井堰★第3回で見た赤山陣屋の関東郡代伊奈忠克が造った葛西用水から南側用水等へ水を流し、江戸を水害から守るためのダムとの解説に、スケールの大きさを感じた。
立入りできない河川関連公園★立派な碑や庭になっていながら金網で囲っているのは不思議。予算が余ったのかと思ってしまう。
日光御成道終着地点の石井酒店★酒も建物も素晴らしく、人に威勢がある。
日光道中との合流点の石井酒店★量り売りの壺が印象に残る。裏に隠れてしまった旧店舗がもったいない。
日光道中との追分★天保11年創業の石井酒造店前で記念写真を撮り祝杯を上げて踏破の喜びに浸れた。
日光道中との追分★江戸から離れていくのに、江戸から来た2本の道が合流するのが何とも面白い。
日光道中との追分★何故ここで合流したのか、合流工事が完了した時点での、両街道の様子など、多くのことを思い浮かべ、考えさせられた。
幸手宿の酒店★短冊状の敷地の奥につながるトロッコの線路を見たのは初めてで感激した。
幸手商店街の酒屋のトロッコ★明治〜大正期に栄えた商店街には結構残っているが、幸手で見ることができるとは思わなかった。
至る所にある洪水の表示★利根川本流から離れた幸手市内にも表示があり、被害の大きさを感じさせた。
洪水の水位の表示★利根川氾濫の記録となる水位レベルが、沿道のあちこちに見られたことが印象的。
洪水の水位の表示★幸手や栗橋の町の中で、あちこちの電柱に昭和22年の洪水の水位が赤い蛍光テープで表示してあったのが、水害の記憶を生々しく伝えるものとして強く印象に残った。
洪水の水位の表示★電柱に貼られた水位の表示を見て、水害の大きさに驚きを感じたと同時に、スーパー堤防への啓蒙のようで役所のエゴが見えた。
静御前の墓(栗橋)★案内板に、静御前のかわいい写真があったのには吹き出してしまった。
静御前の墓(栗橋)★広場の周りに店舗が並び、パティオのように楽しい雰囲気を創っている。
栗橋八坂神社★およそ3年半前に訪れたことがあり、今回同様にお祓いをしていただいた。前回と同じシチュエーションとなり、非常に懐かしさを覚えた。
栗橋八坂神社★神主さんが現れ、お祓いをしていただいたのは、3年半前日光道中を歩いたときの再現で、まさか二度も体験しようとは思わなかった。
栗橋八坂神社★お祓いをしていただいたことは良かったと思う。
栗橋八坂神社★御祓いをしていただけたのは、まさに僥倖だった。
栗橋の古い町家、水塚★
水塚と栗橋宿★
栗橋宿の水塚★昭和22年のカスリーン台風による水害の水位が水塚に上る階段の最後の一段まで来ていたのこと。先人の知恵を実感した。
吉田家の水塚★水害の被害軽減のための昔ながらの生活の知恵として、興味深く拝見した。どの程度の期間の経験を経て、今の高さになったのか知りたいと思った。
吉田家の水塚★蔵の中を拝見し、実際に洪水時に避難生活に役立ったという話には、とても重みがあった。
吉田家の水塚★こんな生活の知恵があったとは知らなかった。おじいさんの生の体験談が聞けてよかった。
吉田家の水塚★話には聞いたことがありますが、実際見るのは初めてだった。
吉田家の水塚★
吉田家の水塚★
吉田家の水塚と吉田卓治氏の話★
水塚と敷地内の神社★利根川の威力とそれに対する知恵を生々しく想像できる。
夕暮れの薄闇の中に見た利根川★「坂東太郎」という別称は伊達ではないと感じさせる大きさだった。そして、その大きさが沿川に住む人々の生活の基盤を形づくってきたのだと想像させてくれた。
6 街道らしさを感じたところとその理由(いくつでも)
下高野の一里塚★周囲の街並みに埋もれてしまいそうな危うさだが、おそらく何度も削られて、かろうじて現在の形をとどめているのだと思う。この道はただの田舎道でない、街道だったのだと声なき声で主張しているように感じた。
下高野の一里塚★やはり、街道のシンボル。
下高野の一里塚★東側に塚が残っている。
下高野の一里塚★街道であることを再認識した気がした。
下高野の一里塚★右の塚の跡だけだったが、存在感がまだ残っていた。
下高野の一里塚★東側だけなのが残念だが、良く残してくれた。
下高野の一里塚★
下高野の一里塚と杉並木の面影★
下高野付近の松2本★御成道の松並木の面影を偲ばせる。樹形も美しい。
下高野付近の松並木★昔はもっと松並木が続き、よい景色であったと思う。
下高野付近の松並木★2本だけだが残っていた立派な松の木から偲ぶ、並木の跡。
少し残っていた松並木★といっても2本だが、往時はさぞ立派だったと思う。
松並木の名残の松★江戸時代の松並木が三本残り、今なお生き生きとしている。
道標兼石塔群★和戸橋を渡った所に宝暦7年の庚申塔、八幡神社に元禄7年の庚申塔、琵琶溜井堰近くに文化14年の馬頭観世音菩薩があり、それぞれ道標を兼ねている。
立派な道標が結構残っていた点★
幸手宿の周辺★酒屋などが街道らしい雰囲気を残していた。
栗橋宿の町家★
栗橋宿の町並★堤防上を走る国道の下、ひっそり残る旧道沿いの家々が水塚を守り、菓子舗を営んでいる。
栗橋宿の町並★しっぽり。
7 最も江戸時代を感じたところ+理由(一つだけ)
下高野の一里塚★八幡神社にあった庚申塔や、江戸時代に創業されたお店など、幾つか江戸時代から続くものはあったが、やはりこれが一番かと思う。
下高野の一里塚★街道は時間変化していくものであり、最も変わらないものと位置づけられるのでは?
下高野の一里塚★東側に塚が残っている。
下高野の一里塚と杉並木の面影★
下高野付近の松★御成道を偲ばせます。松並木の復活を願ってやみません。
途中の松並木跡★形の良い松が数本昔の街道の名残を思わせてくれました。
八幡神社★
日光道中と日光御成道の合流点★御成街道が直進しているところ。
日光道中と日光御成道の合流点★将軍様の通る道が直線、、、江戸時代を感じた。
関所番士屋敷(栗橋宿)★世襲制で武士が関所を守っており、その子孫の家が今も残っている点。
栗橋宿の家並み★さびれてはいるが、往時の宿場を偲ばせる道路と家並みが過ぎ去った歴史を感じさせ、想像をたくましくさせてくれた。
栗橋の水塚★
栗橋の水塚★江戸時代以来、創られ守られてきた水塚が、昭和戦後にも立派に役目を果たし、今日もその姿を伝えていること。それを語り継ぐご当主の言葉の重みと深さ。
栗橋の人々★あたたかくて洗練されていて、そして、江戸時代が昨日のことのように生きている。
★実はあまりない。
8 沿道の歴史文化の表示について(史跡や街道について、適切に解説がありましたか)
●今まで歩いた旧街道の中には旧道なのかもわからない道も多かったが、日光御成道は、その表示も多く、沿道がその歴史を大切にしていることが偲ばれた。
●幸手市内には随所に案内板や解説板があった。
●適切に解説がなされていたと思う。
●街道の説明等は比較的良かったと思う。
●解説表示がところどころ見受けられた。
●要所要所に説明書きがあった。
●随所にあった。
●解説があったと思う。
●比較的たくさんの解説板があった。デザインや維持管理がもう少し良くなればと思う。
●治水事業の記念碑は、派な碑があるのに柵で中に入れず、残念。(街道とは無関係ですが...)
●「御成道」などの石塔はあったが、全体としては十分とはいえない。幸手の町は(少々駆け足で通りすぎてしまったせいか)地図と予備知識がなければ、往時の宿場であることを理解するのには解説・案内等が不十分だった。
●あまり無かったような気がする。
●分かりにくい。
9 栗橋宿・吉田家の水塚について(感想)
●吉田様には、鍵を開けて水塚の中まで拝見させていただき、貴重な体験を拝聴させていただき、どうもありがとうございました。この地に住む人々の先祖の知恵の結晶である水塚。敷地内に盛り土をして水害に備え、実際に避難したことは、想像を絶するものがありますが、そのご経験をお持ちのご当主のお話は、とても貴重なものでした。語り伝えていくと同時に、この場所に保存することが意味を成すのだと思います。(脇野真澄)
●水塚というものについて、話に聞いたことはありましたが、実物を見、また実際に水害に役立ったという体験談を聞くことができたのは初めてです。洪水時、周囲が一面の濁流となった様子を想像してみましたが、現実はおそらく想像の域を越えているでしょう。この水塚を、利根川の高い堤防を背景に見るとき、河川とともに暮らしてきた沿川の人々の生活、水塚の存在意義、吉田家の代々のご当主たちの苦労が偲ばれます。治水のための先人の知恵であり、工夫の証拠であるこの水塚が、堤防事業のために無くなってしまうのはいかにも残念です。水塚の偉大さは、その実物を(この場所で)見ることで、初めて理解できるのではないかと思います。どうしても壊さなければならないのならば、どこかに移転・再築できないものかと思います。(村松紀明)
●輪中地帯に勤務した経験(岐阜羽島)を思い出しました。木曽三川(木曽・長良・揖斐)下流域の濃尾平野では、集落は微高地にあって助命壇と水屋があり、農家の軒先には船が吊ってあったそうです。1976年の水害で長良川が決壊したとき、下流の輪之内町で残していた輪中堤防を閉め切って浸水を免れた事実は、江戸時代の知恵がなお有効であることを物語っています。関東にも同じような風土と人々の知恵があり、貴重な水塚が現存していることを知り、吉田様のお話を伺って深く感銘しました。(大竹 亮)
●今のような堤防のなかった時代には、多少の溢水はしょっちゅうだったのだろう。八坂神社や水塚のような微高地に避難したのだろうが、宿場全体としては少ないように思った。「計画する方は、堤防強化までの事をいろいろ検討しているが、その後のまちづくりについては、何も考えていないように思う」との言葉はきちんと受け止める必要がある。(梶川義実)
●いつ頃から築かれたのか定かでない水塚だが、昔の人の生活の知恵が昭和22年の洪水に生かされたという、その生の声を直接御当主からお聞きできたのは、得難い経験でした。(長澤純一)
●古い時代から、利根川と渡良瀬川の合流地で、幾多の災害に見舞われ、水との戦いと言うか、川との共存の思いを強く感じました。あらためて、先人たちのご苦労と知恵に感銘しました。(岩田 清)
●利根川東遷からず〜っと水に苦しめられた、住民の方の苦労が伝わってくる。(千川 明)
●「御上が全住民の安全を十分には守り切れなかった時代、個々人はその命を守るために自衛する必要が
あり、庶民は大いに苦労をした」との思い。(橋本 修)
●費用の心配をしました。当時は個人で自衛するしかなかったか?(竹沢文男)
●輪中堤などと同様に、河川の近くに住まう人たちの経験に基づく知恵の一つであり、貴重なものだと思います。(高梨健一)
●よく残っていたなぁと思います・・・。大学にいたときから一度見てみたかったです。(齋藤健一)
●水害に悩まされてきた昔の人々の知恵の姿の一つである水塚が消えて行くのは残念に思います。
(山川紀子)
●昭和22年のカスリーン台風による水害の水位が、水塚に上る階段の最後の一段まで来ていたのこと。先人の知恵を実感しました。(古里 実)
●昭和22年の水害の際の出水の高さと水塚の高さがちょうど一致しているのは偶然ではなく、これまでの長年に亘る水と共存してきた地域の貴重な知恵である。ただ堤防をつくれば良いのかどうか考えさせられた。 (谷貝 等)
●貴重な歴史的資料であるともに、現在でも万が一の際には活用できるように整えられている点で、洪水に対する生きた知恵であると思う。スーパー堤防が建設され、水塚が失われ、そうして、荒ぶる利根川との関わり合いも洪水に対する一般人の備えも希薄になるかもしれない。(磯田尚子)
10 栗橋宿の今後のまちづくりについて(意見)
●利根川の東遷事業については、大熊孝「利根川治水の変遷と水害」(東京大学出版会)に詳しいが、大川(現隅田川)に流れ込んでいた関東平野で乱流する利根川を運河を掘って東へと流して現在の利根川としたものです。江戸の水害防止と銚子からの内陸水運ネットワークの形成が目的と言われていますが、前者の目的が大きいものと考えられます。この事業により新たな利根川沿川の地域は、江戸に代って水との戦いとなりました。現在の吉田氏の文章中にある「高水工法」になる前は、必ずどこかが被害を受ける構造になり、東遷事業によってその被害を受ける場所が東に移されていったことになりました。下流の印旛沼開発も洪水の影響でかなりの苦労をしています。(栗原東洋「印旛沼開発史」参照)
さて、栗橋宿の今後の街づくりですが、先ずは本当に堤防の強化が必要なのかどうか?専門家ではないのでわかりませんが、現在の技術でうまく水を逃がす方法はないのだろうかと思いました。それでも堤防強化が必要ということであれば、この地域の歴史(栗橋宿と水害との戦い)をうまく残した形での整備が必要であろうかと思います。先ず水塚は何としても保存してほしいと思います。(雲仙普賢岳の火砕流の被害跡を道の駅の中に残している事例があります)吉田氏のおっしゃられていた通り、堤防強化と地域の整備のビジョンが一体となって事業が進められるべきではないかと思います。(谷貝 等)
●利根川の堤防整備については総論と各論の相克、悩ましいところですが、最低限、住民の方の生活保障と、栗橋宿の面影の保存、利根川の洪水の歴史を後世に伝える工夫が必要と感じました。静御前、栗橋関所、栗橋宿、深広寺の21基の巨大石造名号塔、水塚、カスリーン台風がキーワードになるでしょう。仁徳天皇時代の我が国初の治水事業や江戸時代の三十石舟などを展示した枚方にある淀川資料館が参考になるかもしれません。(長澤純一)
●街の景観を損なわない堤防作りが望ましいとは思いますが、水害からの安全性を求めるとなると難しいのでしょうか。文化や歴史を継承できるような方向で進むことを希望します。(山川紀子)
●吉田家の水塚の後に立ち寄った和菓子屋さんで、「栗橋宿はなくなってしまうのよ、東京のために」とおっしゃられたのが印象に残っています。(脇野真澄)
●大洪水は60年間無かったのだから、地球規模での気象予測や降雨予測を十分に行い、精度の高いシミュレーションを重ねた後、本当に住民の家屋や遺跡を壊す必要があるのかどうか、他に手は無いのかどうかなど、情報も公開し、最高レベルの精度で検討すべきであろう。(橋本 修)
●江戸時代か明治の頃かわかりませんが、瓦屋根の間口が広くガラス戸になっている、古い商家風の佇まいに趣きを感じました。古を偲ばれるようなまちづくりを期待するところですが、利根川スーパー堤防がどのようになるか、災害に係る事ですので、他所の者が軽々に意見も出せません。(岩田 清)
●う〜む。これは軽々にはコメントできない問題だと痛感します。仮に堤防の問題を脇に置くとしても、商店街振興の点だけでも考え込んでしまいます。それだけでも難題中の難題なのに、たとえば「暫定スーパー堤防」方式では、商店街が片側だけになってしまいます。片側・半ペラだけの商店街? いま以上に商店街は沈み込んで行くでしょう。歴史的街並みの形成もできません。歴史的街並みである商店街の振興と、治水対策をどう共存させていくか?いましばらく(地域の人々を主人公とした)論議が必要ではないでしょうか。長い歴史の節目として考え、街の姿を大きく変えていくことを決断するのも、選択肢の一つかもしれませんが。(村松紀明)
●車社会になって栗橋はただの通過点でしかないので、町興しを真剣にやらないとさびれる。(竹沢文男)
●県道に面している商店街の雰囲気が残ると思うので、堤防強化案(7H)で行った方が良い。(千川 明)
●現状の堤防で溢水しない保証はないので、今のままというわけには行かないのだろうし、移設するほどの歴史的建造物が多いとも思えない。堤防強化事業とともに、商店街を改造する事業を行い、国道4号の通過交通から買物客を呼び込むような仕掛けをすると良いのでは。(梶川義実)
●街並みの保存という面からは、スーパー堤防は街並みを壊すものとして適切ではないと考えます。しかし、利根川自体は江戸時代から幾度の工事を受けて、河川工学という面からは水路というべき河川であることや、過去の浅間山の噴火で河床上昇起こしている事実から考えると、スーパー堤防を構築しなければならないと思います。結局、スーパー堤防を構築した上に、いかに街道の街並みを保存する対策をとるということが重要なのではないでしょうか??(齋藤健一)
●ハードウェアにより河川の氾濫をどのように防ぐかという点は、住民の生命・財産を守る観点から、重要であろうと思います。一方、昨今、災害対応において自助・公助・共助のうちの「共助」が重視されてきており、経済的な発展とともに宿場町の共同体をどのような形で維持していくかという点についても、重要であろうと思います。この点は、昭和22年の台風の際に、近隣の方が吉田家の水塚へ避難されたということからも想起されるところであると思います。(高梨健一)
●大都市圏全体の治水対策のために小さな町が犠牲になるのでは、江戸時代と変わりません。いずれの案も町を大きく改変する計画ですから、治水事業が先行するのではなく、町の課題を解決し、将来を創っていくためのまちづくり事業(地元の人たちの事情と意向を踏まえ、皆さんが参加できる現実的な事業)と一体的に進めるよう、行政は努力すべきです。そして地元に担い手が育ち、治水と街道の歴史を活かし、水塚や宿場の町並みなど生きた貴重な資源を大切にして、コミュニティを再生するような活動に、行政と協働して取り組んでいってほしいと思います。(大竹 亮)
●街道の宿場町は両側の町並みが残ってこそ、再生する意味があると思います。治水事業の選択は、是非、宿場町の再生を基本に据えて、地元(栗橋宿)の暮らしの課題の解決につながるよう、十分、知恵を出し合うことを期待します。そのためにも、先人の知恵のシンボルである水塚を残し、街の再生に活用できると良いと思います。(古里 実)
●治水の歴史を活かす。若い担い手を確保する。初めて訪れても愛着のわく街だったが、この雰囲気がいつまでも残ってほしいと望む。(磯田尚子)
追補■「利根川の堤防整備」のパブリックコメントについて
●基本的には地域のみなさんの時間を十分にかけた議論によるべきだと思いますが、単なる通りすがりの人間として感じたことを申し上げるとすれば、ひとつには、極力いまの生活や町を変えない、最小限度の改変にとどめるように工夫することはできないのか、という考え方から発想すること、もう一つは、先にも書きましたが、長い歴史の節目としてとらえ、今までの生活基盤とは異なった新たな街づくりの出発点として、ゼロからのスタートという発想もあってよいのではないかとも思います。そういうふうに考えてみると、「堤防強化案」「暫定スーパー堤防案」も、いずれも「最小限度の改変」にとらわれすぎている発想のように思えます。この先400年くらいを見通した、新たな出発点としての今回の事業の着想も、あってもよいのではないでしょうか。無責任なことを書きましたが。(村松紀明)
11 今回の企画についての感想など
●幸手までの短い区間の踏破への道と、栗橋の水塚を組み合わせたのは大成功でした。主催者に感謝。
(長澤純一)
●非常に充実した企画でした。特に、栗橋宿・吉田家の水塚は、水との戦いという生きた歴史を学ぶ貴重な存在で、ご当主のお話は今までの20年以上に及ぶ私の街道歩きの中でも、最も感動的な体験でした。そして、栗橋のまちづくりを深く考えさせられ、いくら考えても解が見つかりません。(大竹 亮)
●幸手宿の印象が薄い反面、栗橋宿は静御前の墓など、街道らしさを感じさせるものがあった。吉田家の訪問は貴重なものでした。いずれにしろ、日光御成道を歩き通せたことが良かった。(梶川義実)
●スーパー堤防の計画は勉強になりました。最近の公共工事はヒアリングを重視していることが良く分かりました。(竹沢文男)
●個人的にまったくゆかりの無いところでしたので、毎回楽しみに参加し、完歩出来たので良かったと思います。古里さんには本当に感謝しています。ありがとうございました。(岩田 清)
●今回のコースに、時間的な余裕もあったからでしょうか、栗橋宿を組み込んでくださったことが大変よかったと思います。参加できなかった前回の<岩槻〜和戸>の区間は長行軍で大変だったそうですが、今回は程よい距離で、ひ弱な我が足腰にも耐えることができました。あらためて、吉田さん宅の訪問の調整をしてくださった古里さんに感謝する次第です。(村松紀明)
●オプションのみにしか参加しませんでしたが、無くなってしまうかもしれない水塚を見せていただき、吉田様の実感のこもったお話をお伺いできて、大変貴重な体験をさせていただきました。(谷貝 等)
●水塚の見学や80年以上それを守って来た方のお話などが聞けて大変良かったと思います。幹事の方々、有難うございました。(橋本 修)
●吉田さんの丁寧な水塚の解説に耳を傾ける一時は、時代をタイムスリップした様な感覚でした。カスリーン台風。何故カタカナなのか?何故人の名前の様な呼名なのか?素朴な疑問が、後で調べて見ましたら、昭和22年はまだ日本は米軍占領下のため、台風の呼び名もアメリカの呼び方だったということを知り、この企画のお陰で知識の無い私にとっては新発見でした。(山川紀子)
●良かったと思います。(高梨健一)
●前回は参加できなかったのですが、今回は本当に来て良かった、歩いて良かった。オプションの栗橋宿は、大変立派な家々が残っていましたし、水塚で吉田様のお話を伺うことができ、貴重な体験ができました。どうもありがとうございました。(脇野真澄)
●公共事業(治水)と地元(栗橋宿)の暮らしの課題を見事に言い当てられていらっしゃた吉田さん(水塚の御当主)のお話を聞くことができたことは、大変、貴重な収穫でした。(古里 実)
●オプション企画がよかった。とても考えさせられた。(磯田尚子)
■日光御成道1〜7<江戸日本橋〜幸手追分+栗橋宿>を通じた感想 (参加回数順に掲載。*印は一部区間の独自踏破を含む)
●日光道中、日光壬生道、日光例幣使道に続いて、日光御成道も踏破でき、これで日光関係の主要街道はすべて踏破できて満足しています。各地で得た知識の断片が街道という一本の糸でつながるとき、無上の喜びを感じます。宿の面影を残すという点においては鳩ヶ谷宿が一番印象に残りました。あと赤山陣屋跡と見沼代用水が私にとっての三大ハイライトでした。渋沢栄一関係記念館、大門宿、岩槻宿、栗橋宿で地元を代表する方等の生のお話が聞ける機会が作られた(とくに大門宿と栗橋宿)のは、良かったと思います。(*7回全区間踏破★長澤純一)
●全日程参加し、全行程踏破することができて良かったと思います。途中、交通量が多いにもかかわらず歩道がなく、危なく感じた箇所もありましたが、概ね安全に歩くことができました。また、大門宿の本陣や吉田家の水塚など、お話を聞けて良かったと思います。他の見どころとして印象に残っているのは、吉祥寺、旧古河庭園、六義園、さぎ山記念公園、久伊豆神社、慈恩寺です。(7回全区間踏破★高梨健一)
●第4回から先の埼玉県内には、かなり街道らしさが残っていて「歩いて良かった」と思った。浦和大門の本陣、岩槻の遷喬館、栗橋の水塚などで話が聞けたことは特に良かった。街道の酒屋や菓子屋などで買物をすると「どっから来たの?」と多くの人が感心・興味を示したことは、街道沿いに生活していることを自覚しているのだと思う。(*7回全区間踏破★梶川義実)
●日光御成道(本郷通り)は、幼稚園への通園に歩き、中学時代は都電に乗って都心へ行き、高校時代にはバス通学し、今も近くに住んでいるという、私にとって非常に親しい道です。それゆえ、日本橋から幸手追分まで皆さんと歩き通したことは、何よりうれしいです。日本橋から江戸の名残り豊かな都内の市街地を抜け、郊外の見沼田圃を眺めつつ岩槻城下町に至り、関東平野の田園風景を幸手まで歩くこの道は、歴史・文化・自然に恵まれた道であると同時に、東京大都市圏の構造を体感する道でもありました。自動車交通による沿道の改変は著しいですが、面影残る街道の良き伝統を活かした美しい風景を再生し、後世に伝えていきたいものだと心から思います。(*7回全区間踏破★大竹 亮)
●第2回(飛鳥山〜川口)は雨でしたので予備日に変更になりましたが、はじめの予定日の雨の中、荒川の長い橋を渡って川口に入ったのを思い出します。大変多くのことを見たり、いろいろの方の話しを聞いたり、大変面白く、勉強にもなりました。日光御成道は良い経験になりました。次回も楽しみにしています。(*7回全区間踏破★岩田
清)
●珍しい多くのものを見、体験し、当初予想していた以上に充実した時間を過ごせたと思う。各種資料をご準備いただき、また現地でご説明いただいた、幹事の方々には感謝しております。(7回参加/橋本 修)
●無事にゴールでき、有難うございました。違った角度からのウォーキングの楽しみ方を学ばせて頂きました。日本橋〜飛鳥山が参加できませんでしたので、時間を作って後で歩いてみたいと思います。
(6回参加/山川紀子)
●日光御成道企画は、自宅からのアクセスが良かったこともあって参加したが、都内は馴染みの場所が多く楽しく歩けたし、見沼田圃、岩槻宿、栗橋宿は、何度も訪れたいと思いました。どうもありがとうございました。(6回参加/脇野真澄)
●地元埼玉の御成道を5回に渡りご案内することで、私自身が、旧宿場町はもちろんのこと、台地と低地を刻む多くの河川や水路を知り、埼玉南東部の地形と街の歴史を実感することができました。ご参加と街の評価をいただき、ありがとうございました。(6回参加/古里 実)
●マイナーな街道だが、地元を通っていて関心があったので、ほぼ歩けて良かった。(6回参加/千川 明)
●日光御成道から初めて参加しました。職場でも話題の日本橋を出発し、第1回、第2回ときちんと整備された道を歩いていたら、江戸から離れるにつれ、歩道もなくなり、危険を感じつつ歩いたことを覚えております(忘れつつあります)。宿場や街道の途中に、これほど歴史の積み重ねがあるものかと、街道に夢中になられる方の気持ちの一端を垣間見た気がいたします。また素人は、ただ歩くだけでなく、土地の風土文化に詳しい人と歩くのが良いということも実感しました。今後も機会を見つけて、ご一緒させていただければと考えております。(4回参加/松本幸司)
●teku-tekuには幾度か参加させていただきましたが、旧街道ウォークは今回が初めての体験です。一本の古い道を、その道をめぐる歴史に思いを馳せつつ歩く、歩き通すという重さを(完歩できなかったのでなおさら)感じています。今回の「日光御成道」は沿道のいたるところで「御成道」「御成街道」の呼称が生きており、人々のふだんの生活の中に「御成道=古くからある、地域の主要な幹線道路」として定着していることを感じました。まだ足腰の調子が完璧でなく、年齢を自覚させられつつありますが、今後とも機会とコンディションを見ながら参加させていただきたいと考えています。(4回参加/村松紀明)
●全体に旧街道ルートがそのまま主要な道路として現在も使われていて、道として機能していることは良いのですが、それゆえ車の交通量が多く、歩くのに快適とは言い難いのが残念です。旧来の雰囲気を残すことと道の機能を充実させることの両立は難しいと、いつも感じますが、一部の地域では両立に近いものが見られたことは嬉しいです。集落内の道路が拡幅されていない区間では、通過交通をなるべく少なくし、歩行者や生活者に優しい道路が良いのですが。(4回参加/片桐拓朗)
●第1回目の神社仏閣や庭園など名所多き都内の道から、第4回目の見沼田圃沿いの道、そして続く第5回目の旧岩槻市内の街歩きと、変化に富んだコースを楽しむことができました。(3回参加/山根純一)
●街道を歩くと、道や川が時代と共に生活の中にあることを身近に感じることができます。ポツポツと残っている昔の建物や社寺に、当時の街の様子を想像したりしながら、のほほんと歩くことも楽しいです。私は途中参加ばかりで短い踏破距離ですが、赤羽から都内唯一の蔵出し酒屋「小山酒造」を通って荒川を渡り、川口に入ったあたりは、水の文化と生活文化の融合を感じ、とても感動しました。
(2回参加/小野田美都江)
●旧街道が幹線道路となり宿場が商業地となっている通常の街道と異なり、昔ながらの景観があちこちに残される日光御成道は、いつもの街道歩きとは別の意味での面白さがありました。(2回参加/谷貝 等)
●日光御成道、第1・2回に参加しました。その時のことを思い出そうとしたら、「赤門前の和菓子屋」「神田明神の酒粕のお話」「駒込の洋菓子屋」「名主の滝で食べた王子のたまご焼き」・・・と、次々と「味」をつないで、街道の様子が思い出されました。「味」の充実した街道でしたね。(2回参加/水谷晴子)
●旧街道には独特の魅力がありそう。癖になるかも。(2回参加/磯田尚子)
●コースの事前調査がすばらしいのには、ただただ感心させられ、企画・準備された方々に御礼申し上げます。今後もできるだけ参加させていただくつもりです。(2回参加/竹沢文男)
●街道を歩く、という場合、当然のこととして、自動車交通のために昔のたたずまいが失われている沿道は多い。現在の街道を評価する場合、昔の雰囲気が残っているから心地よい、といった見方をしたくなる。しかし、ただ単にそのように見るのは適当ではない。面として広がる歴史のある街の中なら、評価できる景観は多いだろう。だけど、その街と街をつなぐ街道は姿を変えてしまっていることは多いし、それも止むを得ない。その際大切なことは、先人の知恵を継承した改変をしているかどうかを検証することだと思う。例えば、河川の氾濫原として兼用されていた農地は、将来も氾濫する可能性を見越した公園として整備しているかどうか。そんな場所を、不十分な治水対策のまま住宅地にするようなことをしていたら、それは不適当だろう。そんなふうに、沿道の自然環境や先人の知恵を継承しているかどうかを評価するのが、街道歩きの際のひとつの大切な視点だと感じた。(1回参加/清水俊哉)
●1回だけの参加でしたが、御成坂公園(鳩ヶ谷)の壁画を見たときに、日光へつながる道を歩いているのだなあと実感した記憶があります。この日、特に印象に残ったのは鳩ヶ谷宿の趣きや田中邸、そして赤山城趾。高速道路をくぐり赤山城趾へたどり着いた時は、周りを包む濃い緑や堀のある静かな風景から、ここは別世界か夢の跡か・・と不思議な気持ちになったことを思い出しました。(1回参加/鎌原史英)
<以上、今回の記録まとめ:大竹 亮>
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